なんの仕事をしてる人でも、人の世のため、人の喜びのため、人の幸福のためということを考えることを忘れない生活を営んでもらいたい。自分の存在は人の中にいる存在である以上、できるだけ人の喜ぶ、人の幸福も考えてあげよう。
人間の行為に、まごころがこもってなされるのとそうでない場合は、その結果の事実のいかんにかかわりなく、その行為の「尊さ」というものに、格段の相違がある。
あっそうか、と気のついた時が新しいバースデイであります。自己に新しい百八十度のコンバージョン(転換)を与えるバースデイをつくるかつくらないかは、あなた方の自覚に待つのみであります。
明日死を迎えるとしても、今日から幸福になって遅くないのであります。まして若い人の胸は炎と燃えてなきゃうそですよ。
私はね、人間に年齢はないと思っています。六十、七十歳になろうと、自分が十七、八歳時代と考えてみて、違っているのは体だけ。心そのものはちっとも変っていないはずです。ですから、四十や五十はもちろん、七十、八十になっても情熱を燃やさなきゃ。
正しきものに従えば、決して歪めるもの、正しからずものは出てこない。自分で正しいことを行っているようでも、その行いの中に正しからず不純のものがあり、歪めるもの、汚れたものがありゃ、必ず結果においてよくないものが出てくるのは当然であります。なぜかといえば、この世の中は、すべて蒔いた種に花が咲き、実が成るようにできているんだ。
生きようとも考えなきゃ、死ぬことも考えない。きれいな景色を見ているときと同じような状態の心。無碍にして自在なるを得る。人間は虚心平気、何事も考えないときがいちばん無事なんです。
真の平和とは、お互いに克己し、お互いに自制し、お互いに相譲り、相愛し、相たのしみ、相導き、相助け合う、という完全調和の美しい気持ちが、家庭組織の各個々人にもたれているということが、なにより先決条項である。
幸福というものは客観断定にあらずして、主観の断定です。はたからどんなに幸福そうに見えてもそれは幸福とは言えないんですよ。本人がしみじみ、ああ、私は幸せだと思えないかぎりは、本当の幸福を味わうことは出来ない。
その心のなかに絶えず高尚な積極的観念が熱烈に燃え上がって生きている人。そういう人は、たとえ仮に、はたから見て大きな不幸だなあと思うようなものがこようが、悲しみがこようが、すべてをその高尚で積極的な心的態度で美化、善化して、幸福化してしまっているのです。本人が幸福化している以上は、不幸はありゃしない。幸福はというものは主観的断定だもの。

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