中村天風 ほんとうの心の力

 本当の心の世界には、人を憎んだり、やたらにくだらないことを怖れたり、つまらないことを怒ったり、悲しんだり、妬んだりするというような消極的なものはひとつもない。あるように思えるのは、そこに悪魔の心が入り込んでいるからだと、ヨガの哲学では説いているんです。心本来の姿は、八面玲瓏、磨ける鏡のように清いものだ。その清い心にいろいろ汚いものを思わせたり、考えさせるのは、それは心本来が思ってるんじゃない。悪魔がその心の陰で悪戯してるんだ、と。  なるほど、この考え方はいい考え方だ。自分が心配したり、怖れたりしているときに、その思い方、考え方を打ち切りさえすれば、もう悪魔はそのまま姿をひそめるわけだねえ。  光明を人生に輝かせようと思っても、そうした気持ち、心持ちにならないかぎりは輝いてこない。だから、「きょう一日、怒らず、怖れず、悲しまず」と、言っているじゃないか。この「怒らず、怖れず、悲しまず」こそ、正真正銘の心の世界の姿なんだ。  静かに自分自身、考えなさい。何かで怒ってやしないか。何事かで悲しんでいないか。それとも何か怖れていやしないか。すべて消極的な気持ち、心持ちが心のなかに出れば、自分が批判する前に、自分の心それ自体が非常な不愉快さを感じるからすぐわかるだろう。
 この世の中は、苦しいものでも悩ましいものでもない。この世は、本質的に楽しい、嬉しい、そして調和した美しい世界なのである。  ところが、多くの人は、これを信じないどころか思おうともしないで、苦痛と、苦難と、失望と、煩悶に満たされているのが、この世であると考えている。...
 心や肉体というものはうわべだけで考えると人間そのものであるかのように見えるが、実はそうではなく、わかりやすく言えば、心や肉体というものは、人がこの世に生きるのに必要ないろいろの方便を行うための道具なのである。  およそ人間の生命のなかには、心および肉体よりも一段超越した、しかも厳として存在する実在のものが一つあるはずである。...
 あなたがたは、抽象的で、あまりにも漠然としたものを、やれ、神だ、仏だ、と思っているが、では「神とはどんなものか」と聞かれたら、どう説明するか。見たことも聞いたこともないものに、説明の与えられるはずはない。そう思うと、何となく安心が出来るといったような、同時に、自分が一番の信仰というようなものを、何となく気高いと感じる、という感じで考えられるだけではないだろうか。だから私から言わせれば、やれ神だ仏だ、といっている者は、安直な気休めを人生に求めている哀れな人だといわざるをえないのだ。  第一、もし、あなた方が考えているような神や仏が、この世の中に存在したら、この世界に戦争などあろうはずがないではないか。キリスト教の人間たちが、地球をも破壊するような原爆や水爆を、考え出す必要もないじゃないか。もし本当に、あなた方が思うような神や仏があり、それに信仰を捧げたなら、即座に神や仏のような気持ちになれそうなものではないか。  本当の真理から論断すれば、何も神や仏だのと頼らなくてもよろしい。昔からの歌にもある。  心だに 誠の道に かないなば 祈らずとても 神や守らん
 本来人間は、改めて真理をいろいろ説き聞かされるまでもなく、この世に生れ出たときから、絶えず真理に接し、真理のなかで生きているのである。...
 こんなこと考えたことあるかな? 何でも「自分に責任はない、あいつが悪いんだ、こういうことが悪いんだ」といって、責めを他に負わせようとするのが普通の人間の常識じゃないか・・・・・・...
 調和ということは、厳粛なる宇宙本来の面目であり、かつまた人生の実相であると同時に、生きとし生ける生命の本来の姿なのである。言い換えると、調和ということは、万物存在の絶対に侵すべからざる尊厳なる自然性なのである。...
 現代人は、特に科学一点張りの理知教養をうけた人は、何かの説明をほどこす際、「科学的」という言葉を用いると、やにわにこれを何か絶対真理のように早合点するという傾向が顕著にあるようである。しかし、静かにこれを考査すると、およそ科学的理論考証には二つの区別があるはずである。...
 この広大無辺といわれる大宇宙。およそ大宇宙というものは、この世の中で一番大きなものと誰でも考えている。とにかく、果てしのわからない大きなものなんだからね。  しかし、その果てしのわからない大宇宙よりも、人間の心のほうが大きいんだぜ。...
 私が事業家にいいたいのは、ここだ。  宇宙の真理に背いた、自分本位の欲望でもって、しようとしたことは、そう滅多に成功するものではない。事業に成功するのは、自分が欲望から離れて、何かを考えたときに、また、その考えたことを実行したときに成功するのだ。...

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